「あはは、そうだな。痛いかもしれない。けど大丈夫、ちゃんと処置はしてくれるよ」少年の手をぎゅっと握り、一緒に薄暗い路地を進む。しばらく歩き続けると古びた建物が見えてきた。蜂蜜色のネオンがチカチカと光っている。『己の幸福』という文字が書かれた看板がある扉に手をかけて開けるとカランコロンとドアベルが鳴った。「やあマスター、久しぶり」カウンター席しかない店内に入るとバーテンダー服を着た、街灯頭の男性がにっこりと笑う代わりにチカチカと光を瞬かせて私たちを迎える。席に座り、辺りを見回すと外にいる影と同じような者たちが言葉もなく酒を楽しんでいるようだった。ここは何なのだろう、そう思い隣に座った少年を見るとまた愉快そうにくすくすと笑った。そして、マスターを呼ぶと「マスター、質の良い不安の種が手に入ったんだ。……そう、彼の胸にあるやつ」 マスターは喋らず、頭の傾きな光の明滅で対応をしている。以下は私の想像のマスターのセリフだ。《……ほう、なるほど。こいつは中々の不安だね。では早速》マスターが指をパチンと鳴らすと、ちくりと痛みが走った。そして、私の胸にあったはずの不安の種がふよふよと浮かび上がり、そのまま光りながら店の真ん中にある機械へと吸い込まれていった。「あれは」「蒸留器、だよ」少年はいつのまにかおつまみを頼んでいたらしく、ナッツを頬張りながら答えた。「不安ってネガティブなものだけど。その中には意外と色んな要素が入っているから、丁寧に蒸留してから他のお酒と混ぜると美味しいカクテルが出来るんだってさ」見れば、他の客からも不安の種が取り除かれて蒸留器へ向かっていく。石ころのようなものから、宝石、蜂蜜のようなものまで多種多様だ。「世の中、色んな不安があるんだなあ」私がそういうと、少年も頷いた。それからしばらくして蒸留が終わり、マスターが棚の中から選んだお酒とシェイクする。職人の手捌きで生み出された琥珀色の液体が目の前に運ばれた。グラスを傾ければグラデーションが現れる。ふんわりと、どこかで嗅いだことのある甘い香りが鼻腔をくすぐる。……これは。「さて、どんな味だい?」「……プリンの味だ」「わはは、さて。君の不安は二人分あるらしいや、頂いても?」もちろんと答えると、少年は嬉しそうに運ばれてきた自分の分のグラスに口をつけた。表情を見るにどうやら彼もこのお酒は好きなようだ。私もつられて再度口をつける。濃厚なカスタードの味わいが口内を満たし、喉を通ると鼻からカラメルの香りが抜けていく。「不安を美味しいって思う日が来るとは思わなかった」ふうと、甘い息を吐くとマスターがお水をグラスの横に置いた。≪あまり急いで飲みきらぬように。美味しいとは言え大量に摂取すると依存性がありますからね≫「だから分け合って飲むんだなあ…見てごらん、一人で呑んでるやつらは居ないだろう」 そう言われてから辺りをまじまじと見ると、確かに影達は最低でも二人、多いと五人くらいで席を囲んでお酒を楽しんでいるようだった。影の姿は人型だけに限らず様々で、大小固形液体老若男女それ以外。なんでも、バーの雰囲気を壊さないように楽しく不安を飲み干していた。「君にも僕がいてよかったな。馳走になるよ」「……最初からコレが目的だったのか?」 それを聞くと、どうだろうねと少年は笑った。*** その夢を見た日。起きても現実は全く変わらず。さりとてくそったれな仕事を終え、不安が溶けていくのを感じたときに夢のことを思い出してプリンを買った。あのお店で呑んだものほど美味しくはないけれど、それでもどこかご褒美のする味がした。 coffee 「ありがとうございます!」 2022/08
少年の手をぎゅっと握り、一緒に薄暗い路地を進む。
しばらく歩き続けると古びた建物が見えてきた。蜂蜜色のネオンがチカチカと光っている。
『己の幸福』という文字が書かれた看板がある扉に手をかけて開けるとカランコロンとドアベルが鳴った。
「やあマスター、久しぶり」
カウンター席しかない店内に入るとバーテンダー服を着た、街灯頭の男性がにっこりと笑う代わりにチカチカと光を瞬かせて私たちを迎える。席に座り、辺りを見回すと外にいる影と同じような者たちが言葉もなく酒を楽しんでいるようだった。ここは何なのだろう、そう思い隣に座った少年を見るとまた愉快そうにくすくすと笑った。そして、マスターを呼ぶと
「マスター、質の良い不安の種が手に入ったんだ。……そう、彼の胸にあるやつ」
マスターは喋らず、頭の傾きな光の明滅で対応をしている。以下は私の想像のマスターのセリフだ。
《……ほう、なるほど。こいつは中々の不安だね。では早速》
マスターが指をパチンと鳴らすと、ちくりと痛みが走った。そして、私の胸にあったはずの不安の種がふよふよと浮かび上がり、そのまま光りながら店の真ん中にある機械へと吸い込まれていった。
「あれは」
「蒸留器、だよ」
少年はいつのまにかおつまみを頼んでいたらしく、ナッツを頬張りながら答えた。
「不安ってネガティブなものだけど。その中には意外と色んな要素が入っているから、丁寧に蒸留してから他のお酒と混ぜると美味しいカクテルが出来るんだってさ」
見れば、他の客からも不安の種が取り除かれて蒸留器へ向かっていく。石ころのようなものから、宝石、蜂蜜のようなものまで多種多様だ。
「世の中、色んな不安があるんだなあ」
私がそういうと、少年も頷いた。
それからしばらくして蒸留が終わり、マスターが棚の中から選んだお酒とシェイクする。職人の手捌きで生み出された琥珀色の液体が目の前に運ばれた。グラスを傾ければグラデーションが現れる。ふんわりと、どこかで嗅いだことのある甘い香りが鼻腔をくすぐる。……これは。
「さて、どんな味だい?」
「……プリンの味だ」
「わはは、さて。君の不安は二人分あるらしいや、頂いても?」
もちろんと答えると、少年は嬉しそうに運ばれてきた自分の分のグラスに口をつけた。表情を見るにどうやら彼もこのお酒は好きなようだ。
私もつられて再度口をつける。濃厚なカスタードの味わいが口内を満たし、喉を通ると鼻からカラメルの香りが抜けていく。
「不安を美味しいって思う日が来るとは思わなかった」
ふうと、甘い息を吐くとマスターがお水をグラスの横に置いた。
≪あまり急いで飲みきらぬように。美味しいとは言え大量に摂取すると依存性がありますからね≫
「だから分け合って飲むんだなあ…見てごらん、一人で呑んでるやつらは居ないだろう」
そう言われてから辺りをまじまじと見ると、確かに影達は最低でも二人、多いと五人くらいで席を囲んでお酒を楽しんでいるようだった。
影の姿は人型だけに限らず様々で、大小固形液体老若男女それ以外。なんでも、バーの雰囲気を壊さないように楽しく不安を飲み干していた。
「君にも僕がいてよかったな。馳走になるよ」
「……最初からコレが目的だったのか?」
それを聞くと、どうだろうねと少年は笑った。
***
その夢を見た日。起きても現実は全く変わらず。
さりとてくそったれな仕事を終え、不安が溶けていくのを感じたときに夢のことを思い出してプリンを買った。
あのお店で呑んだものほど美味しくはないけれど、それでもどこかご褒美のする味がした。